ちょっと、地唄舞情報 ~追悼アンジェイ・ワイダ監督~

2016-11-01

 

                追悼 アンジェイ・ワイダ監督

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(この写真はポーランド大使館より使用許可をいただいております)

10月11日の新聞にポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の訃報が大きく掲載されていました。正式な逝去日は10月9日のことで享年九十歳。世界の尊敬を集めてきたアンジェイ・ワイダ監督の功績については今さら書く必要もないことですが、2007年に「カティンの森」2013年に「ワレサ・連帯の男」最新作は2016年今年の「残像」とのことですので、八十歳過ぎても休むことなく素晴らしい映画を創り続け天寿を全うした生涯といえるでしょう。

なぜ、地唄舞にまったく関係のなさそうなアンジェイ・ワイダ監督のことを書くかと申しますと、実は杜季女師の今年のポーランド公演に関係しています。2016年6月24日のクラクフでの公演は「クラクフ日本美術・技術センターMANGGHA(マンガ)館」の舞台で行われました。ここで杜季女師が「残月」の地唄舞を披露し好評をいただいたことが来年度の再演招待の理由になりました。この通称「マンガ館」は日本の伝統工芸や美術品の中欧、東欧における随一のコレクションを有する、日本文化の拠点です。

この「マンガ館」はアンジェイ・ワイダ監督が設立したもので、彼がいなければ決して完成することはなかったのでした。「マンガ館」という名前もワイダ監督が北斎漫画から名付けたもので、勿論アニメのことではありません。ワイダ監督は日本文化を愛した人でした。

既にご存知の方もいらっしゃるでしょうが、アンジェイ・ワイダ監督への追悼と感謝をこめてマンガ館設立までのいきさつについて書いてみます。

 

きっかけは、1987年、アンジェイ・ワイダ監督が稲盛財団から、世界の優れた科学者、芸術家に贈られる京都賞、精神科学・表現芸術部門の受賞者に選ばれたことです。彼はその賞金4,500万円を、瞬時も迷うことなくそっくりポーランドに日本美術館を建設する資金として寄付しました。

現在の日本においても高額な賞金ですが、1980年代のポーランドの深刻な経済状況を考えたら、それは想像もできないほどの大金で、彼はこの高額の賞金でかなりのことが出来ました。思い通りに新しい映画を創る潤沢な費用にもなったでしょう。しかし、彼は賞金を自分のものとしませんでした。

『ワイダの世界╶映画・芸術・人生╶╴』(岩波ブックレットNO・107 岩波書店 1988年1月20日発行)の高野悦子との対談での彼の言葉を引用します。

 

 

今回、京都賞というすばらしい国際賞をいただくことになり、たいへんに幸せだとおもっております。いま、私の思いは、まだ大戦中の一九四四年、ナチス・ドイツの占領中のポーランドの古都クラクフで開催されました日本美術展にさかのぼります。

当時、私は十七歳でしたが、将来は画家になりたいという希望をもっていました。そのような私にとって、日本の喜多川歌麿とか葛飾北斎、さらには武具をはじめとする工芸品との出会いは、強い印象を残しました。それは、私にとって初めてのほんとうの芸術との出会いともいうべきものでした。

しかし、その後、それらの作品は一度も展示されることなく、現在にいたっています。

これらの作品は、今世紀初頭にポーランドの資産家のヤセンスキが、パリなどで浮世絵を中心に熱心に買い集めたもので、国立博物館に寄贈されておりました。ヤセンスキは、収集品は残しましたが、展示する場を残しませんでした。じつに、一万点以上の日本美術品が、六十年以上も眠ったままになっています。先ほどもお話しましたように、私にとって真の芸術との出会いでしたので、以来、つねにあのコレクションのことが頭の中にあったのです。

それが、今回思いもかけずに京都賞をいただくことになり、その賞金を、収集品を展示するための日本美術館の建設資金にしたいとおもいました。全額(4,500万円)を美術館建設のための資金の一部として寄付することとし、この問題のイニシアチブをとったわけです。私は人生の中で、そんな山のようなお金を手にしたことはありません。芸術家はお金をもちすぎてはいけないとおもいます。非道徳的になる可能性があります。しかも、いただくお金は日本からのものです。それが日本美術館建設のための基金の一部となるならば、日本とポーランドの新しい友好関係にも役立つのではないかとおもっております。

 

 

この対談では十七歳と語っていますが、ポーランドクラクフ市のマンガ館発行の英文パンフレットによると、画家志望であった十八歳のアンジェイ・ワイダ青年は、ナチス占領下の街でいつ連行されるかわからない危険の中、偽造の身分証明書類をポケットにいれ、たまたま開催されていたヤセンスキのコレクション展示を観に出かけたのです。その時に彼は日本美術に強い感銘を受けました。未来のワイダ監督の心を捉えた日本美術の魅力を推察すると、ワイダ監督が東日本大震災のときに日本に寄せたメッセージの中にそのヒントが感じられます。その部分を引用します。

 

 

日本の友人たちよ。

 

あなた方の国民性の素晴らしい点はすべて、ある事実を常に意識していることとつながっています。すなわち、人はいつ何時、危機に直面して自己の生き方を見直さざるをえなくなるか分からない、という事実です。

 

それにもかかわらず、日本人が悲観主義に陥らないのは、驚くべきことであり、また素晴らしいことです。悲観どころか、日本の芸術には生きることへの喜びと楽観があふれています。日本の芸術は人の本質を見事に描き、力強く、様式においても完璧です。

 

日本は私にとって大切な国です。日本での仕事や日本への旅で出会い、個人的に知遇を得た多くの人々。ポーランドの古都クラクフに日本美術・技術センターを建設するのに協力しあった仲間たち。天皇、皇后両陛下に同行してクラクフを訪れた皆さんは、日本とその文化が、ポーランドでいかに尊敬の念をもって見られているか、知っているに違いありません。

 

 

ドイツ占領下という深刻な危機の中で、若き日のアンジェイ・ワイダは日本美術の中に、悲観主義に陥ることのない世界観、「生きることへの喜びと楽観」を見つけ、慰められ励まされたのだと想像します。ワイダ監督は京都賞受賞を、ヤセンスキの日本美術コレクションの展示場所を創る一生に一度のチャンスと考えたのでした。

 

民主主義国家ではノーベル賞受賞者の賞金の使い道について国家が干渉するという話は聞いたことがありません。生活費に使っても賭け事に使っても、どこかに寄付してもそれは受賞者の自由です。ところがポーランド政府はワイダ監督の京都賞の賞金の使途について干渉しました。ワイダ監督はそれを見越していたのでコミュニスト政権下にあるポーランドの銀行に預金することはせず日本に賞金を残していました。

パンフレットの説明によりますと、ワイダ監督は案の定、賞金で日本美術館ではなく、クラクフ市の国立美術館のエアコンの設置を求められたのです。その上、十八歳のワイダ青年がナチス支配下に開催された日本美術展をボイコットしなかった過去に対する批判まで受けたということでした。私は国民すべてプロパガンダの道具でしかない当時の共産主義政権というものの徹底した国民支配の一端にふれて驚きました。

ワイダ監督は当然ながらいかなる政権の圧力にも屈する人間ではありません。ワイダ監督の強固な意志と、それ以上に検閲の煮え湯を飲まされながらも粘り強く映画を創り続けてきた優れた戦略家の手腕がなければ、政府の干渉をはねのけての日本美術館建設は到底不可能でした。

幸い、ワイダ監督の志に応じて日本側もワイダ監督を強く後押ししました。ワイダ監督夫妻が発起人となった京都クラクフ基金に日本側からの多額の資金が入りました。高野悦子を中心とした呼びかけで多くの日本人、JR東労組が募金活動に参加し(138,000人)、日本政府も資金を出し500万ドルほど(正確な数字については資料がみつかりませんでした)の寄付金を集めました。その結果クラクフ市も無償で土地を提供し、グッゲンハイムミュージアムなどで知られる世界的な建築家磯崎新が無償で美術館の設計を請け負ったのです。これはふつう建物価値の10パーセントを得る建築家としては破格のことですし、完成写真を見ていただければわかりますが、北斎の浮世絵を想わせる波をイメージした屋根の、美しい立派な建物をみれば、それが真摯な仕事であることは明らかで感動を覚えます。

このマンガ館建設期間中にポーランドの政治情勢の好転があり、ワイダ監督は「連帯」から出馬し上院議員になりました。マンガ館は晴れて1994年完成し、ワレサ大統領、日本からは高円宮ご夫妻臨席のもとに開館式典を行いました。アンジェイ・ワイダ監督は日本とポーランドの文化交流の大恩人なのでした。

クラクフ日本美術・技術センター マンガ館は日本文化紹介のための最高の舞台の一つです。日本はワイダ監督の日本美術への愛にこたえるためにも、今後益々日本の優れた文化・芸術を発信していく必要がありましょう。杜季女師の地唄舞公演がそのお手伝いとなりますことを花崎流門下生一同も心から願っております。

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マンガ館の全体像は下記リンクからご覧ください。

http://manggha.pl/en/archive

文責 珠真女