花崎杜季女「巴」評 中島智

中島 智先生 ((なかしま さとし、1963年 - )日本の芸術人類学者。専門は芸術人類学メディア論、現代芸術論、視覚文化論武蔵野美術大学非常勤講師、慶應義塾大学兼任講師(現代思想論)、多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員[1]。「芸術人類学」という学問領域の提唱者。)よりの、10月20日、花崎杜季女の会への評を掲載させていただきました。
まず拝見するまえに、以下のツイートをいたしました。花崎さんの藝に立ち合う心構えとして、自戒をこめて書いたものです。
「私たちが彼らよりもよく、また遠くまでを見ることができるのは、私たち自身に優れた視力があるからでもなく、ほかの優れた身体的特徴があるからでもなく、ただ彼らの巨大さによって私たちが高く引き上げられているからなのだと。」シャルトル学派
古典を愛でることは、いわば “巨人の肩” に游ぶことである。それは〈変化する表徴〉ばかりに捕われてしまう意識よりも、それを支える〈変化しない本質〉のほうに根ざすことであり、いわば “集合的無意識の肩” に游ぶことである。
以上が、心構えでした。
そして、「菊之露」についての感想として、次のように書きました。
友人の花崎流地唄舞家元さんの公演を観た。伝統という通時的無意識に根ざした身体をもって、場のメディウムと化し、削ぎ落とされた最小限の所作によって、舞手の周囲の空気を動かし、そこに舞手が視ている景色を感染/幻視させる、名人の芸であった。
義太夫は、配布の資料のとおりに唄ってくださったので、とてもすんなりと入って参りました。素人の僕はしばしば、聴き取りそこねてしまっておりましたので、助かりました。
「巴別離」は、とてもダイナミックで、驚かされました。どの動きも安定していながら、しかし、まるで「次の動きが決まっていないかのような」初々しい動き!まさに今初めて起きているかのような臨場感ある動き!に、ビックリマーク(感嘆符)ばかりが、頭に浮かんでおりました。
ずいぶん同じ所作を練習なさるのでしょうけれど、その反復はついつい舞いの「再現」になりがちなのでしょうけれど、なのに、今初めて舞っておられるかのように舞う花崎さんに、凄みを感じずにはいられませんでした。
「巴懺悔」もまた、静謐な感動がありました。古典でなく創作の場合、往々にして「意識で舞ってしまう」方向に引っ張られると、予測していたのでしたが、それは愚かな杞憂でありました。それは見事に裏切られました。
花崎さんの舞いは、創作であっても、「無意識に舞わされている」と痛感いたしました。この無意識というのは、花崎さんが立たれている「伝統」とか「土台」のことです。それは舞踊という人類の長い蓄積の、いわば(先述の)「巨人の肩に游ぶ」在り方でした。
舞おうとせずして、舞う。
やはり、名人芸であると、今回もまた感嘆いたしました。